2003.4.1
今回のイラク戦争の宗教的側面を分析した記事です。とても勉強になりました。ブッシュの行動を石油と彼のIQだけで説明するのはちょっと無理があり、説明つかない部分が残りますが、これを読めばその残りの部分が全部わかります。
Le choc de deux fondamentalismes(2003.4.1)
二つの原理主義の衝突
「十字軍」対「ジハード」? イラクの戦争が泥沼化する危険性に直面するなか、ひどく恐れられていた宗教戦争のシナリオが現実味をましてきている。一方の国では、ジョージ・ブッシュの演説では、若者に対する祈りの呼びかけや聖書が頻繁に引用され、キリスト教の典礼やドグマでこの戦争の正当化が図られている。戦争での死傷者や犠牲者が増えれば増えるほど、この種の宗教政治への偏りが多用される可能性がある。もう一方の国では、サダム・フセインは得意になって現代のサラセン戦士を気取り「神を汚す」異教徒の自国への侵略と神を持ち出してくる。サダムは決して尊敬されては居ないが、イスラムの連帯と「聖戦」を訴えるサダムの呼びかけは、アルジェリアからパキスタンまで、カイロからテヘランまで、広くイスラム社会に反響を及ぼしている。これは9月11日事件の時以来予測された事だ。こういうあくどい手法を用いられては、三つの一神教を生んだ東洋においては、神の名前や宗教的主題に身を震わすこと以外はないのである。
父親が国教徒であり、ジョージ・ブッシュJRは米国統一メソジスト教会に属している。副大統領のディック・チェイニーもそうだし、ホワイトハウスの人事担当責任者アンドリュー・カードもそうだ。コンドリーサ・ライスは彼女自身牧師の娘である。国防長官ドナルド・ラムズフェルドこそどの宗派にも属しては居ないものの、アメリカの運命はこれらの小さな凝り固まったプロテスタント教徒の手に握られていると書きたい誘惑に駆られる。事実、ジョージ・ブッシュは人を改宗させる事に情熱を注ぐ。祈祷は彼の日常生活に組み込まれている。彼は「新たに生まれた」とする分派に属し、洗礼により第二の命を与えられてと考える分派であるが、これが「バイブル・ベルト」と呼ばれる米国南部を中心に居る7000万人の信者の心をつかむのである。
宗教的「ポピュリズム」
洗礼「福音書教徒」もしくは「ペンテコステ」と呼ばれるキリスト教のネオ原理主義は、アメリカにおけるすべての「蘇生主義」に根ざしている。これはアメリカ南部やヨーロッパ、更にアジアやアフリカにまで広がっており、社会学者ハーベイ・コックスのような専門家によれば「21世紀の新興宗教」となりつつある。この「ポピュリズム」は世界の不安定さへの反動として、経済発展と共に都市部の匿名層にも増加しつつある。テレビなどによる布教をし、伝統的なキリスト教のやり方である牧師、司祭を通じての神との対話というやり方を取らない。聖書の言葉だけをまさに文字通り信じて、人間嫌悪や死刑を正当化し、堕胎を禁ずるのである。「改宗者」は小さな「エリート」サークルに入るものと信じられている。世界は「善」の力と「堕落」や「退廃」や「蒙昧」のの力に二分割されているとのマニ教的な世界観を持つ。この「堕落」と「蒙昧」こそがしばしばイスラム教と見なされる。9月11日以降、説教師のパット・ロバートソン、ジェリー・ファルウエルなどが、「犯罪者」マホメッドという汚い言葉でイスラム教を攻撃してきた。
メシア的使命感
この原理主義がイラクに対する戦争においてアメリカを動かしていると信ずる事はもちろんグロテスクな事である。この原理主義のネオ保守主義者で固めた政治への影響ということだけでアメリカの介入理由をすべては説明できない。しかしキリスト教社会において一つの亀裂が生じ始めている事は事実である。ローマ法王を始め、プロテスタント、オーソドックス、国教会などはほとんど全員一致で戦争反対を言っている。アメリカにおいてさえ、南部バプチスト協会連盟(1600万人の信者)をのぞけば、ブッシュが所属しているメソジスト教会を始めすべての教会が戦争に反対しているのだ。
しかし深層部のアメリカにおいては、9月11日の惨事に揺さぶられ、「神を信ずる」と書いたドル紙幣のように強力なシンボルを求め、アメリカこそが「道徳的に普遍的な国家」でありその役割を全面的に肯定する傾向が、自分自身をして、フランスのアメリカ・プロテスタンティズムの研究者セバスチャン・ファースが言ったように「神が宗派を越えてアメリカを一つに正当なものとしてまとめ上げている」という信念に結びついていないと言えようか。
アメリカの歴史は独特のものであり、メシア的な使命としてその国民はパイオニアである事を使命付けられており、自由こそが絶対的ドグマであり、アメリカは約束された新しい大地であり、アメリカ人は新しい選民である。ジョージ・ブッシュJRは決してこのようなメシア的役割に従った最初の大統領ではない。ロナルド・レーガンは「悪の帝国」と戦った大統領だったし、ジミー・カーターは、南部バプティスト教徒であり、サウジアラビアのワハビイズムを、イランのシーア派に比してよりプロテスタント的だとの理由で(イスラムのプロテスタントだとして)、寛大に扱った。多くの観察者は、1991年の第一次湾岸戦争において、アメリカの新教徒(福音書派)と、聖地の守護者でありイスラムのピューリタンでありすべての神と人間との間の司祭的仲介を拒絶するサウジアラビアとの間で、バイブルと鉄砲の「聖なる同盟」(スリマン・ゼギドールの言葉)が存在した事を見たのである。今日においても、歴史的な要因とか戦略的利害関係を越えて、アメリカともう一つの「神の民」であるところのイスラエルとの数多くの繋がりに驚かざるを得ない。イスラエルとエルサレムを死守するという使命感に燃えパレスティナ人を敵視するメシア的なキリスト教徒は、聖書におけるヘブライ人とフィリスタン人やカナネー人との対立を思い起こさせるものである。
このプロテスタント原理主義とイスラム原理主義の対立はキリスト教徒とイスラム教徒の歴史的な敵対関係を新たに呼び起こすものなのか。事実、この戦争は歴史の所産である。むしろモハメッド・アルクーンが『マンハッタンからバグダッドへ』で書いたように「神話の歴史」と言った方がいいかも知れない。この本に書いてある十字軍の話や侵略の戦争が、21世紀の今再び、聖なる制度を守るためにお互いを否定し合う「聖なる戦争」として燃え上がると想像するとやりきれない事である。
過去における、ナセル主義にならった初期のパレスティナ人の反乱や、アルジェリアの独立運動、アラブの抵抗などは大きなナショナリズムの時代の流れに沿ったものだ。しかし今日においては、世俗の理屈こそ付けられてはいるものの、本当のところは、宗教こそがフラストレーションが溜まったアラブ社会における行動を規範する中心的イデオロギーになっているのである。シオニズムとか社会主義とかマルクス主義とかの世俗のモデルは風化してしまい、宗教的正当性こそが現象として権力を握り(イランのイスラム革命やイスラエルのよる占領など)すべて正統主義への復帰につながっているのである。
過程
サダム・フセインも、自分の体制は世俗体制であるにも拘わらず、紛争においては常に宗教的な装いを着せた正当性を求めた。イランとの80年代の戦争では、すでに彼はイスラム教徒の世論をねじ曲げるように操作した。ガルフ戦争の時は、ふたたびサウジアラビアを攻撃して、イスラムの聖地の守護者であるにも拘わらずアメリカのプロテスタントのしもべとなりはてたと非難した。
9月11日事件の後はイスラミズムは敗北し究極的にばらばらになってしまった。エジプトやアルジェリア、イランに始まった「長い」戦いの過程は、結局世論の動員に基づく政治権力に道を譲りイスラム主義は壊滅した。しかし「短期的な」戦いは一層過激な暴力的なものとなり、攻撃され屈辱を受けたイスラム教徒とユダヤ人と「十字軍」との間の歴史的対立を際だたせたのであるが、これもやはり行き詰まった。1981年にサダトを暗殺したが、エジプトの政治体制を転覆するまでには到らなかったし、大多数のイスラム教徒は9月11日事件を引き起こそうというような人間を支持しない。ラディカルな暴力はジル・ケペルが『ジハード』で書いたように「イスラムの領域における致命的な罠」と見なされるようになったのである。
人は「イスラムと西欧」という括りでイラク戦争を見て詳しい分析を書略してしまうことが出来ると考えがちであるが、ヨーロッパと西欧は全員一致ではない。イスラム世界自身も未だ嘗てないほどに多様化しており、ナショナリスティックに相手を非難する国もあれば、民主主義の国もあり、また一方において、「ジハード」を構築する国もあるのである。しかしキリスト教世界を席巻しつつあるアメリカの新教原理主義とイスラム原理主義は、神学的教義に基づき声高に叫ばれるビジョンが大きく違い、神聖と堕落の原始的な教典解釈に基づく論争を基礎にした宗派であり、お互いに対立するものである。この戦争が宗教戦争の様相を呈するのはもちろん今すぐにという事ではないし、確定的な事でもないが、将来に予見しがたい結果を引き起こす消し炭(オキ)のようなものとして存在するのである。
Henri Tincq
・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 01.04.03
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